銀に関する豆知識
銀の‘歴史’、‘性質’、‘品位’の各テーマにそったコラムです。

‘歴史’は人類と銀との関係や、当時の主要な産地、時代毎の金銀比価、精錬法の発明等、雑学としても興味深い内容になっています。全ての鉱山は掘り尽くすといずれ廃坑になりますが、重要な鉱山の発見は国や、地域を潤し歴史にも大きく影響を与えてきました。その反面、過酷な鉱山労働は世界各地で多くの悲劇も招いたことと想われます。

‘性質’は銀が持つ特性を中心にまとめました。デザイン上、銀の性質の生かし方はとても重要になります。有名ブランドの特性の生かし方も例としてあげています。また革と同じく日本と世界における価値観の違いもご覧下さい。

‘品位’は世界各国の政府認定銀品位制度などをまとめてみました。現在において、金と比べて廉価な銀には一部のブランドを除いてあまり使われることはないのですが参考としてご覧下さい。

  目  次

銀の歴史

銀の性質
銀の品位
□銀の歴史 >TOP
 始まりは紀元前3000年
人類はいつごろシルバーを手にしたのでしょうか。考古学上では、BC(紀元前)3000頃の埋葬遺跡から近年発掘された装飾品が最古となります。メソポタミア文明を築いたシュメール人の都市国家の一つ、ウルの遺跡とエジプト文明において同時期にあたるゲルゼー文化期(下エジプト)の遺跡からの発掘でした。両地域は当時交易がありましたが、より文明が発達していたメソポタミアがルーツと考えられます。

当時の主要な銀鉱山の一つは現在のトルコ辺りのアナトリアにあり、鉱石の状態で輸入し自然銀を取り出していました。ところが当時、銀の精錬技術が未発達であった為、金より高価なものとして扱われていました。金は精錬しなくても砂金やナゲット等の状態で自然界に‘そのもの’として存在することがありますが、銀は自然の状態では鉱石の中にしか無くしかも概ね他の金属との合金で存在する為、純度の高い銀はとても貴重だったのです。当時のレートで、銀の価値は金に比べ2.5倍(金銀比価、2.5:1)と定められました。

BC2500年頃になると、シュメール人が他の鉱石から不純物(他の金属)を取り除き銀を抽出する精錬技術を世界で始めて確立し生産量が増大するとともに、銀と金の価値が逆転しました。BC1792年のハムラビ法典にはメソポタミアにおいて、銀をその重量で貨幣代わりに使っていた記録が残っています。


メソポタミア発掘品模型
 紀元前1000年
一方、アメリカ大陸に目を向けるとBC1000年頃には南米(現ペルー辺り)にアンデス文明が独自に発祥し銀製品も生産し始めるとともに様々な細工技術を発展させます。彼らにとっては、純度が高く大量に埋蔵された銀も金と共に、細工素材でしかありませんでした。他の地域と異なり、貴金属的な価値としての認識はなかったようです。

世界的に見て紀元前10世紀位から紀元後15世紀迄、金銀比価はほぼ1:10〜12で安定します。


古代ギリシャの銀貨
 紀元前500年
BC487年には、ギリシャの都市国家アテネ近郊にラウレイオン鉱山が発見されこの潤沢な資金がペルシア戦争での勝利をもたらします。リディアの影響でギリシャでも貨幣を鋳造し銀も使うようになります。以後、銀は貨幣を作る為にも欠かせない物となります。貨幣以外にも、神殿の祭器や装飾品にも使われその需要は拡大します。BC289年にはローマでも貨幣制度が設立され銀貨が鋳造され始めます。

他方、アジア方面ではこの頃中国で青銅への銀メッキや
象嵌の技術が発達していきます。ところが銀を自国で生産する事はできず専ら北方遊牧民や西方のアルタイを経由して輸入していました。

象嵌・・木、陶器、金属等に模様を彫り銀や金を流し込んで装飾する手法。
 紀元前200年
ローマ帝国は地中海世界支配とともに貨幣の鋳造権を独占します。また、この頃から貴族が銀製の食器を愛用するようになりました。銀器を生活の一部として取り入れる文化の始まりです。
この頃朝鮮に移民した中国人の銀細工師が韓国に銀を伝えたとされています。交易の範囲からすると、さらに日本へも伝わったと考えられ、銀と日本人との最初の出会いもこの頃であったのでしょう。ところが銀が我が国へ直ぐに根付くことはなく、専ら銅製品が重視されていました。恐らく世界における高価な銀の価値を直ぐには見出せなかったのでしょう。
 紀元1世紀
インダス文明を受け継いだインドでも紀元後にはヘレニズム(古代ギリシャ)文化の影響から、銀の食器を作り始めます。銀器は見た目の美しさと、その滅菌作用、さらには毒に反応して変色するとも考えられ以後の歴史上欧州、中東とともに銀器使用の文化が根付いていきます。それらの文化圏では手入れが必要な銀器がピカピカに磨かれている事が優秀な使用人を抱えている名家の象徴でもあり自慢であったようです。現在でも欧米、インド、中東等の国々では銀器の手入れの仕方で家の質が判ると言われるほどです。

 3世紀
ローマ帝国の財政を抱えていたスペインの銀山が枯渇するとともに貨幣の品位が下げられローマ帝国において慢性的なインフレが進行します。

唐産の銀メッキされた鏡
 7世紀
7世紀に入ると中国は唐(618-907年)の時代に入り、国際色豊かな貴族趣味から銀加工産業もとても重要になります。それまで輸入に頼っていた高価な少量の銀ではとても追いつかず自国の銀鉱山を開発します。その文化は朝鮮にも伝わり、同じく銀鉱山が開発されます。この頃、銀及び他の金属類の産出は国力維持の為とても重要な産業であり日本へ地銀を輸出できる余裕はありませんでした。日本も苦労の末、対馬(現長崎)に最初の銀山を発見し、674年に天皇へ銀が献上されたとの記録が日本書紀に残っています。日本の銀文化が始まりました。

 10世紀
10世紀頃のアメリカ大陸中米域オアハカ(現メキシコ)地方では、メソアメリカ文明トルテカ文化期が熟成を迎え、銀細工に関しても高度な加工技術が確立されます。この技術は後のアステカ文化に引き継がれていきます。

また、この頃欧州では中部ドイツが最大の銀産地となります。ハルツ地方のゴスラーで968年にラムメルスベルク銀山が開発さされるとともに一躍繁栄を向かえ、皇帝ハインリヒ2世(在位 1102-24)はここへ宮廷を移しました。以後一時採掘が中断されるとはいえ1988年に閉山されるまで1000年以上銀を産出します。

TIFFANYの製品はしばしば`STERLING'と
`925'の両方が刻印されます。

 11世紀
11世紀の中国の宋(961-1279)の時代には庶民文化が発達し銀の彫金技術は大衆にまで広がります。また、この時代、発明された羅針盤が欧州に渡り後に銀の歴史を大きく変えていきます。

ノルマン朝イングランドの造幣所が92.5%の銀を本位と制定し、名家‘スターリング家’が銀貨の鋳造を担います。後に欧米で92.5%の銀製品をスターリングと呼ぶのはこれが由来となりました。現在の英語で`STERLING'は‘法定純度’、‘純銀’以外に‘本物’といった意味も持つようになりました。

 12世紀
西ヨーロッパにおいて、12〜13世紀は銀山の開発が最も盛んな次期となります。

 14世紀
英国で1300年に世界で始めて銀、金の品位を検定する機関(アッセイ・オフィス)を設け、検定に合格すると製品にマークを刻印するようになります。

 16世紀
もともとはアジアの香辛料を求めてポルトガルとスペインが羅針盤を元に覇を競って航海を始めるのですが、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を偶然発見したことが銀の歴史を動かします。16世紀の欧州大航海時代に入った頃、欧州における銀加工技術は芸術性をおび、銀の需要が膨らみます。香辛料貿易で遅れをとったスペインは植民地政策の一環もあり、アメリカ大陸の貴金属に目をつけます。

一方、アメリカ大陸ではメソアメリカ文明圏はアステカ王国、アンデス文明圏はインカ帝国がそれぞれに発展した独自の高度な銀細工を生産していた頃です。突然やってきた異国の侵略者コルテスが1519年、アステカ王国を征服します。また、1533年にはピサロがインカ帝国を征服し共にスペインの植民地として蹂躙し銀を含めた全ての財宝を略奪しました。

この後スペインはアメリカ大陸において数々の銀山、金山を開発します。特筆すべきは1545年に発見されたボリビアのポトシ銀山で、原住民インディオやアフリカからつれてきた奴隷の強制労働のもと、大量の銀をヨーロッパに持ち込み世界最大の銀山となります。それまで欧州ではドイツのボヘミア・ザクセン・マイセン地方が銀生産の三大中心でしたが、コストの安い新大陸産の銀の流入とともに大打撃を受けるとともに、銀の価値が暴落し欧州における価格革命の一つの要因となりました。この頃から金銀比価は1:15〜16となります。

一方、欧州大航海時代が日本をも西洋と邂逅させます。公式な記録では1543年種子島に漂着した明(中国)船の乗船員であった3人のポルトガル人が最初とされています。何れにせよ全くの偶然ではなく、東方貿易で莫大な利益を上げていた欧州の商人が日本にも目を付けていたのは間違いないでしょう。その思惑は後に日本産の銀にも向かい、アジアの小国日本が膨大な産出量の銀をきっかけにして歴史上、世界に認知されるようになります。

その少し前の日本では16世紀室町時代(1338-1573年)後期から安土桃山時代(1574-1602年)にかけて、銀閣寺に代表される東山文化が栄えていきます。わび・さびを重視する文化の中で銀装飾の人気が高まり、富裕層の間で装身具や食器(*銀は漆とともに装飾に使われ、欧州の銀のみで作られた食器とは異なります)、鎧や兜まで様々な銀で装飾した製品が愛用されました。今も日本文化を代表する、蒔絵も平安時代後期に並び2回目の絶頂期を向かえました。

日本の銀の需要が高まると共に、各地で銀山が開発されましたが当時の自然銀の回収では産出が追いつかず主に朝鮮や中国からの輸入に頼る状態でした。ところが1533年博多の商人が朝鮮より招いた技術者、桂寿、宗丹が銀の精錬技術の一つ、‘灰吹法’を伝え、銀の産出量が一気に急増していくのです。

後に日本との貿易を望むポルトガル人の商材として、また戦国大名の軍資金として銀が注目をあび
アマルガム法を導入し飛躍的に生産量が増えたボリビアとならんで世界における銀の一大産地となっていきます。

蒔絵・・漆を塗った器物の表面にさらに漆で模様を書き、乾かないうちに銀(金)の粉を蒔きつける装飾法。

灰吹の図
灰吹法・・銀を含む鉱石を砕いて溶かし、鉛を加えるとその親和性からくっつき銀と鉛の合金が残る(素吹)。これを‘貴鉛’とよび、灰の上に置き炭の粉を振りかけ熱を加えると鉛が酸化鉛となって溶け出し灰に吸収される。残ったものが、灰吹銀と呼ばれた精錬された銀となる
アマルガム法・・銀を含む鉱石を粉砕し溶かして水銀を加えると銀が水銀に溶け、アマルガムと呼ばれる合金を作る。不純物をろ過した後加熱すると水銀のみ蒸発し、精錬された銀となる。鉱石の表面においては微細な銀まで効率良く回収できる。当時の蒸留器の質は悪く、蒸発した水銀を奴隷(インディオ)が吸い続け、水銀中毒から死亡に至り人口が激減した。
青化法・・砕いた鉱石にシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)の水溶液を加え銀を溶かして抽出する方法。アマルガム法は砕いた鉱石の表面の銀しか回収できないが、青化法では内部の銀まで回収できるので取り残しが無い。現在使われている主流な精錬法だが、シアンの毒性の強さから代替法が研究されている。
 17世紀
17世紀前半には日本産の銀は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めるようになります。当時、フランシスコ・ザビエルが本国に送った手紙にカスチリア(現スペイン)人は日本を、銀諸島とよんでいたとの記録が残っている程の産銀国でした。貴金属は捨てられることなく再生されることが多いので、今も世界の各地で当時の日本産の銀が多く残っていることでしょう。

1603年、徳川家康が天下を統一した後、江戸幕府は幣制統一政策として、金貨立てを推奨しましたが、西日本では銀が遣い続けられました。これは、当時西日本に銀山が多く分布しており、中国等の貿易の標準決済方法が銀立てが多く幕府の方針が根付くことはありませんでした。当時の状況をよく表した言葉が、‘東国の金遣い、西国の銀遣い’です。当時、幕府が銀貨の鋳造施設をおいた地域を銀座と呼び、東京の
銀座はその名残としてそのまま地名になっています。

一方、17世紀に英国人により事実上征服された北米大陸(現アメリカ)では現ニューヨーク周辺のインディアン(ネイティブアメリカン)が銀細工に興味を持ちます。白人から手に入れた銀貨をコンチョ(ボタン状の銀飾り)に加工して使い始めました。


 18世紀
英国において、18世紀初頭から約20年間シルバーの本位を92.5%から、95.84%に変更し、これを‘ブリタニア・スタンダード’と呼びました。ところが、柔らかすぎて実用に耐えず元の‘スターリング・スタンダード’に戻します。

1712年にロンドンの造幣局長ニュートンが金銀比貨を1:15.21と正式に制定します。


 19世紀
19世紀のアメリカでは有名なティファニー(TIFFANY & Co.)が1837年に創業されます。当初は現在のイメージではなくファンシー雑貨店でした。後に宝石を扱うようになり、1851年に銀細工師ジョン・ムーアを招いたころからシルバーメーカーとして一躍有名になります。またこの頃南西部のインディアン、ナバホ族がメキシコ人銀細工師を経由してスペインの加工技術を習得します。1870年代までにはズニ族にも伝わりインディアンジュエリーの元になります。またこの世紀は米国において多くの銀山が発見された世紀でもあります。

わが国においては、1853年アメリカ軍人‘ペリー’、1856年初代総領事‘ハリス’の来航をきっかけに江戸時代から続いた鎖国政策が崩壊します。当時世界の銀と金のレートが15:1であったにもかかわらず、日本では独自に5:1に設定していた為、海外の貿易商人に大量の金が交換され持ち出されるという‘金銀比価問題’が発生しました。


特筆すべきは、1890年に現在も一般的に使われている、銀の精錬法、青化法が確立され鉱石に含まれる銀をほぼ全て取り出すことができる様になります。これにより、最も効率的な採掘がもたらされ生産効率が増大するとともに、金銀比価が1:30〜60前後で推移していきます。

 20-21世紀
20世紀初頭アメリカにおいて、ネバダ、コロラド、ユタで相次いで優秀な鉱山が発見され、主要な銀産出国の仲間入りを果たします。1945年第二次世界大戦が終結し、我が国も戦後の復興期を終え生活にも少しずつ余裕がでてきます。ところが銀文化は一部富裕層でしか普及していなかった為、一般大衆における銀文化はありませんでした。商人も廉価な銀を貴金属としては扱わず専らアクセサリー用の素材となります。さらに、銀は世界中の鉱山から新たに採集される銀以外に、二次供給(再生銀)のシステムが確立し、益々その価格が安くなっていきます。

アメリカにおいては、1988年にクロムハーツ(CHROME HEARTS)が設立され、1992年にはCFDA賞(アメリカファッションデザイナー協会アクセサリー部門最優秀デザイン賞)を受賞し一躍有名になります。これをきっかけに、ファッション業界において軽視されていたシルバージュエリーが見直され一大ブームとなります。

一方日本でも、1990年頃からこれら欧米文化の影響を受け銀を貴金属として扱い始めるようになります。クロムハーツの成功は日本へも大きな影響を与え、国内、海外問わず数々のデザイナー、メーカーが紹介され現在に至っています。

尚、現在の世界の主要な銀の産出地は中南米(メキシコ、ペルー、ボリビア)、アメリカ、ロシアとなっています。新たな鉱山生産高は1991年からほぼ横ばいで、供給量に対する需要は年々高まっているのが現状です。いつまでも庶民のジュエリーであってほしい銀ですが、今後地銀の価格が上がる可能性は否定できません。

 まとめ
銀を主題に歴史をまとめてみましたが調べるうちに色々なことが解り、思いがけず長くなってしまいました。大古から世界各地で適度に産出された銀は共通の価値を生み、そのものが‘世界の貨幣’となり得たといえます。それは、国際貿易において有効な決済手段でありその拡大に大きな役割を担ってきた事が見て取れます。ちなみに、金も同じく大古から利用され共通の価値を持っていましたが、産出量の少なさから決済には向かなかったと想われます。

□銀の性質 >TOP
銀製品を使うときに一番重要なことは、銀が科学的に活性であることを知ることです。金、プラチナは金属としてとても安定した状態(不活性)にあるのと比べ、銀は空気中の硫化水素、そして水分に含まれるオゾンや二酸化硫黄と反応して硫化銀に変化します。時間とともに銀の表面が黒変したり、輝きが失われていくのはこの為です。

ところが、古来控えめな日本人は金より銀を好む傾向が強く、多くの人々はその変化をも楽しんできました。現代女性が好む磨き上げた銀の輝きもいいのですが、硫化して鈍い光を放つ銀は‘いぶし銀’と呼ばれ愛着を持たれました。この呼称は銀に留まらず、様々な正の例えとして我々日本人に定着しています。例えばスポーツでは輝く極一部のヒーローに使われることはなく、むしろ地味な努力を積み重ね晩年に輝く選手に使われることが一般的です。
有名な‘クロムハーツ’が日本でも大きな成功を収めているのは、この‘いぶし銀’手法をアイテムに取り入れたことも大きいと言われています。新製品の時に既に‘いぶし’加工を施し、陰影を持たせたボリュームのある立体的なデザインが最大の特徴になっています。

ちなみに日本のデパート等でよく売られている銀のアクセサリーですが多くの場合、皆さんが目にされているのは銀ではありません。これは硫化するのを嫌う方向けに、ロジウムという金属でメッキがされているからです。ロジウムはとても硬い金属でジュエリー加工をするには向かないのですが、柔らかいシルバーのメッキをするには最適だったのでしょう。また、メッキという言葉は印象があまりよくありませんので、多くの場合‘防錆加工’とか、‘コーティング加工’として紹介されています。
これはお手入れの手間を嫌う日本独特の傾向で、銀には銀本来の輝きを求める世界各国ではありえない手法です。私もそう思のですが、見えない部分に銀を使って何の意味があるのか判りません。弊サイトの商品は‘防錆加工’も‘コーティング’もしていない銀(925)‘そのもの’の装飾パーツを使っています。
一方、金属としての特徴は可視光線の反射率です。金・プラチナを含む全金属の中で水銀とともに最も高く、90%の反射率を誇りますので、最も輝く金属といえます。

この特徴を最大に生かしたデザインを提供しているのが‘ティファニー’です。接客の良さと、庶民に手が届く銀ジュエリーで有名になったティファニーはクロムハーツとはある意味対極をなしています。同社のデザインは磨きあげた銀の輝きを緻密に計算し、透明感のある立体感を表現しています。


どちらのブランドもプレゼンテーションの手法は違いますが、共通しているのは対極に位置する銀の特徴を把握しそれぞれ最大に生かしたところだと想います。
興味深いのは、それらの特徴を生かしているので逆の状態になるととても困ってしまいます。机の中でお手入れを忘れ‘硫化’してしまったティファニーにショックを受けたことはないでしょうか。また、クロムハーツを銀磨きの液につけてしまい、‘いぶし’をとばしてしまったことはないでしょうか。私はどちらも経験がありますが、目もあてられませんでした。

弊サイトの銀パーツは革とともに経年変化をしてもいい状態になるようにデザインしました。当初から凹部には若干の‘いぶし’加工を加えていますが、本格的な変化は、時間をかけてお楽しみ下さい。また凸部は磨き上げておりますで陰影のコントラストが好きな方はこまめにお手入れをして頂ければ購入時の状態を維持して頂けます。

最後に製品とは関係ないのですが、銀の‘金属’として最大の特徴をご紹介して終わりにしたいと思います。それは全金属の中で最も高い、‘電気’と‘熱’の伝導率です。高級オーディオ機器に銀のケーブルやジャックが使われているのは電気抵抗を最大限抑え最良の音質を提供する為です。また、熱伝導率に関しての身近なところでは結婚式等において銀のスプーンを熱いスープやコーヒーに使うと瞬時に熱が伝わった経験が皆さんあるのではないでしょうか。

□銀の品位 >TOP
日本の財務省造幣局では1929年に検定制度を設け、銀を5品位に分けています。詳しくは別表を見て頂きたいのですが、世界的に見てジュエリー用として一番ポピュラーな品位は、銀92.5%と他の金属7.5%の合金で欧米では‘スターリング(STERLING)’と呼ばれています。有名なブランドの殆どはこの品位を元に製作していることからもそれが言えると思います。

また、一般的には他の金属は銅が使われるのですが、粗悪な商品は他の安い金属を混ぜることもあったようです。ところが最近では幾つかのブランドは7.5%の部分を色々工夫して独自の風合いを出すこともあるようで一概に銅とは言えなくなりました。詳しくは各社の企業秘密で判りかねますが、弊サイトの装飾パーツは基本に忠実に銅7.5%を使いました。
日本政府の銀品位認定マーク
欧米の影響で最近は商品に‘925’や、‘Sterling’の刻印を打つことが多いようですが、弊サイトの商品は今のところあえて刻印していません。デザイン性を重視している為ですが、品位の保障として刻印を重視される方は、各国の政府が刻印する認定マーク以外は品質の保証としてはあまり意味がないと考えられた方がいいかと思います。

政府認定刻印で一番有名で権威があるのは1300年に制定された英国のアッセイ・オフィス・マークで、成分を分析した分析所固有のマークが刻印されます。ロンドン(レパード)、バーミンガム(錨)、シェフィールド(薔薇)、エジンバラ(城)の4箇所(エジンバラのみスコットランド)にありますが、最も有名なのはロンドンの‘レパード’マークではないでしょうか。アンティークの銀器にしばしばこのレパードマークが刻印されています。尚、マークの絵柄は年代によって数回変更されています。 

英国の次に検定制度を作ったのはフランスですが、ずっと後の1798年となります。仲の良くない英国とは別の品位を制定しているところが興味深いです。その英国では一時、銀の品位を95.84%に制定した時期がありました。これを‘ブリタニア(BRITANNIA)’と呼びますが、柔らかすぎて実用性がなく直ぐに元のスターリングに戻しました。最近では配合が研究され、950シルバー(銀95.0%)でも実用に耐える硬さに仕上げられるようになりましたが、世界ではあまり普及していないのが現状です。

主要国政府認定銀品位
イギリス フランス (西)ドイツ イタリア スイス
制定年度 1300年 1798年 1884年 1968年 1993年
規定純度 958.4/925 950/800 925/800 925/835/800 925/800
※アメリカはプラチナ以外の政府認定制度はありません。

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